境界線で区切られる、という一例

パラリンピック終わった!みんパラも終わった!寂しい!みんパラ最終日の健ちゃんの挨拶、じーんとしました。
あまりリアルタイムでは観られなかったですが、山本篤選手のは観ました。が、リガス・ウッズ選手に記憶の全てを持っていかれました。何あの髪型。



少し真面目な話をします。

私が子供の頃、同級生にはダウン症児がいましたし、かなり深刻なかん黙症の子もいました。小児マヒの子もいて、低学年の頃は車椅子、成長すれば松葉杖を使っていました。成人したころにはそれもいらなくなったそうです。なので、言葉は悪いですが、色々な人がいることには慣れています。抵抗もないです。


今小三の息子の学年にはいわゆる発達障害の子が一人いるだけです。点字ブロックとか車椅子用スロープとか校舎はバリアフリー仕様なのに、それが必要な子供はいないです。

今まで考えたことなかったけど、そういや息子は障害のある人を見たことがありません。

世の中には耳が聞こえない人がいる、というのは概念として知っていたようです。そりゃ毎週『みんなの手話』観てるもんね(親が)。

今回パラリンピックを見て、息子は様々な障害の形を目にしておののいたようでした。仕方ない、だって初めてみたんだもの。

生まれつき手足の一部がない、という状況は想像もしたことがなかったようで少しショックだったようです。交通事故で、というパターンはすんなり納得したようですが。

何度も言うけど初めてその存在を知ったんだから仕方ない。

養護学校は勿論必要です。でも完全に生活圏が分離された形になるのはどんなもんなんでしょうね?触れあわなきゃ相互理解はない訳で、それじゃ差別はなくならないですよね。何を差別というかはさておいて。


そんな訳で息子はあまりパラリンピックを観たがらなかったのですが、ある日のみんパラは珍しく注視していました。陸上の山本篤選手がメダルとった日ね。

両足共に義足のウッズ選手を何か言いたげに見ていました。解説者がいうにはその義足には膝の機能がなく、つまり曲げられない。で転倒し、すぐにやり直して飛んだのをじっとみて、一言。

「すごいね。髪型が」

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そこっスか。まあいいっス。私もリアルタイムで観ていた時そこしか目がいかなかったので仕方ないっス。